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「かわいそう」の、その先へ。映画『平行と垂直』を観て感じた希望

2026.09.01
出典:https://www.toei-video.co.jp/heikoutosuichoku/

※この記事には、映画『平行と垂直』の内容に触れる部分があります。

平日の14時から、映画『平行と垂直』を観てきました。
『平行と垂直』は、自閉スペクトラム症の兄・大貴と、結婚を控えた妹・希を描いた物語です。

映画館にいたのは、たぶん20人もいなかったと思います。
でも、映画が終わって明るくなった館内を見渡したとき、私はなんだか、この十数人の人たちと無性に話してみたくなりました。

「この映画、どうでした?」
「何を感じました?」

数ある作品の中からこれを選んで、わざわざ足を運んだ人たち。
私は普段、アンドナで「障がいのある人のことを、もっといろいろな人に知ってもらいたい」と活動しています。
だから、「この映画を観たい」と思った人がいること自体が、純粋に嬉しかったのだと思います。

希が感情を爆発させる場面

一番心に残ったのは、妹の希が兄の大貴に感情をぶつける場面です。
普段の希は明るくて、少し面白い。関西弁のやり取りは「支える・支えられる」というより、いい距離感の兄妹に見えました。
その希が感情を爆発させる姿は、観ていて本当につらかったです。

幼い頃に母を亡くし、二人で生きてきた背景。
大貴が警察に連れて行かれる出来事も、誰か一人が悪いとは言い切れません。
でも、起きたことには誰かが対応しなければならない。
そのたびに一番近くで受け止めてきたのは希だったのでしょう。
「一人で頑張ってきたんやね」と、胸がぎゅっとしました。

障がいのある人を支えるのは家族だけでなくていいし、妹だから背負うべきだとも思いません。
でも、『家族だけが背負わなくていい』と思う一方で、現実には家族に大きな負担がかかっていることも感じています。
私は普段、重度の障がいがある方やご家族と接していますが、障がいの重い軽いだけでは測れないものが、家族の形にはあるのだと改めて思いました。

「分かっています」と言う人が、一番痛々しく見えた

もう一つ印象的だったのが、大貴の職場の懇親会での出来事です。

普段から彼を気にかける同僚のおじさんが、とてもいい。
「かわいそう」と扱うのではなく、「もう、しゃあないなあ」と少し面白がりながら付き合っている。

一方で上司は、「もっとこうした方がいい」と大貴に指導し、これからの時代、障がいのある人たちへの理解が大切だ、というようなことをみんなの前で語ります。
悪気はなく、むしろ「理解しようとしている側」なのでしょう。
でも、私には、その姿がなんとも痛々しく見えたのです。
「理解の大切さを分かっている」と言いながら、目の前の大貴自身は見えていない。

同僚のおじさんは「障がい者理解」なんて言葉は使いません。
ただ、大貴という人を少し知っているだけ。
この違いにハッとすると同時に、少し怖くもなりました。
私自身も、いつでもあの上司になり得るからです。

私は福祉の専門家ではありません。知っているのは、ほんの一部だけ。
現場のスタッフさんの方が、ずっと多くのことを知っています。
ご家族のことも、私が知っているのはほんの一部です。
だからこそ、「私はわかっている側」と決して思わないこと。
福祉を知らなかった私が、少し近づいて見えた景色を、同じ目線で伝えていく役割なのだと忘れないようにしたいと思っています。

100%理解することなんてできない

そもそも、人のことを100%理解するなんて無理です。
育った環境も経験も違うのだから、それは障がいの有無に関わらず誰に対しても同じ。

でも、「なんでかな」と考えることはできます。
「何か理由があるのかもしれない」と思うだけで、少し相手に近づける。
何も知らなければ「なんでそんなことするの?」と怒ってしまうことも、少し理由を知れば「ああ、そうなんや」に変わる。
責める気持ちが和らぎ、人と人との間に、少し柔らかいものが生まれる気がします。
それを「優しさ」と呼ぶのか、「理解」と呼ぶのか、私はうまく言葉にできません。

大貴は「かわいそうな人」ではなかった

大貴を見ていて、「かわいそうな人」だとは思いませんでした。
妹や家族思いの優しいお兄ちゃんで、仕事にはものすごく真面目。清掃の仕事で便器や床を丁寧に磨く姿は、見ていて背筋が伸びるほど。
彼の中にはたくさんの気持ちがある。ただ、それを言葉や相手に伝わる形で表現するのが難しいだけなのです。

そんな大貴の周りには、彼のことを「少し知っている」職場や商店街の人たちがいます。
困ったときには自然と声をかけ、ちょっと世話を焼きながら、時には面白がって付き合ってくれる。
そのあたたかな関係を見ていると、「うらやましい」と感じている自分がいました。

それは「障がいがあるから特別に支えられている」というより、今の社会には少なくなった、昔ながらのご近所づきあいに似ています。
ごく当たり前の日常の中に、自分のことをちょっと気にかけてくれる人がいる。
人と人とのつながりの中で暮らす大貴の姿が、私にはとてもまぶしく映ったのです。

ボタンが、どこで掛け違ったのか

この映画を観て、私が感じたのは「希望」。
それはこの作品が、「障がいがあることが、どれだけ大変か」を声高に伝えるのではなく、ボタンがどこでどう掛け違っているのかを気づかせてくれる映画だったからです。

登場人物に悪人はいません。悪気もない。でも、知らない。わからない。
ときには、わかったつもりになっている。
その小さな掛け違いが重なって悲しい出来事が起きる。
逆に言えば、ほんの少し知ること、「なんでかな」と考えることで、変わる未来もあるはずです。

アンドナも、「障がいのある人と社会を楽しくつなぐ」という地道な活動を続けています。派手ではないし、すぐに大勢には届かないかもしれない。
でも、少し知ることで見え方が変わる瞬間を、何度も見てきました。
だから、「ああ、こういう伝え方でいいんだ」と、映画に背中を押してもらった気がします。

もし、今日一緒に映画を観た十数人の皆さんと話せるなら、聞いてみたい。
「明日からの行動や考え方に、何か変わることはありますか?」と。

大きな変化じゃなくていいんです。
明日、理解できない誰かに出会ったとき、「なんで?」で終わらせず、「なんでかな?」と、ほんの少しだけ考えてみる。
その小さな想像力が、ボタンの掛け違いを一つ減らしていく。
そんな可能性に、希望を感じた映画でした。

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