【仕事】「障がい者アートって、そもそも何ですか?」あの日答えられなかった問い
こんにちは、アンドナの野村です。
「障がい者アート」という言葉に、私はずっと、ほんの少しの引っかかりを持っていました。
“かわいそうな人たちが、一生懸命がんばって作っている作品”として見られてしまう気がしていたからです。
だから私は「障がいがあるから」ではなく、「この作品がいいね」と、作品そのものの良さで評価される未来にしたくて活動してきました。
でも、活動を続ける中で、何度も同じ問いにぶつかることになります。
「そもそも、障がい者アートって何だろう?」
その問いを、決定的に突きつけられた二つの出来事がありました。
パリで返ってきた「障がい者アートって、何ですか?」
ひとつめは、私が会社員を辞めて、アンドナを設立する前のこと。
久々に長期間の自由な時間ができたため、もともとアートが好きだった私はフランスへ旅に出ました。
10カ所ほど美術館を巡る日々の中で、現地で暮らす日本人の方とお話しする機会がありました。
私が「日本で“障がい者アート”をもっと広げていきたいんです。パリでそういう活動を見られる場所はありますか?」と尋ねると、返ってきた答えは予想外のものでした。
「障がい者アートって、そもそも何ですか?」
さらに、その方はこう続けました。
「たとえば、画家として活躍している人が交通事故に遭い、車椅子生活になったら。それまで“アーティスト”だった人は、その瞬間から“障がい者アート”に切り替わるんですか? その境目の定義は何ですか?」と。
私はうまく答えられませんでした。
でも今ならわかります。きっとその方から見れば、「なぜ障がいのある人の表現だけを、別の棚に分けるのか」が不思議だったのだと思います。
欧米には「アール・ブリュット」という概念があります。それは障がいの有無だけでなく、“正規の美術教育を受けていない人の表現”を含むもの。
一方、日本では、福祉施設での活動から生まれた表現が「障がい者アート」と呼ばれやすい。分け方そのものが、最初から違っていたのです。
この出来事は、私にとって「障がい者アートとは何か」を深く考え始めるきっかけになりました。



「なくなるかべ」で芸大生が口にした、まっすぐな疑問
もうひとつは、現在アンドナも関わっている「なくなるかべプロジェクト」の現場でのことです。
これは、障がいのある作家の作品を起点に、芸術大学の学生さんが建築現場の仮囲いをデザインするというプロジェクトです。
授業の中で学生さんが、ふと、でも真剣な顔で言いました。
「障がい者アートと、私たちが学んでいるアートって、何が違うんだろう?」
当然の疑問だと思います。
学生さんたちは、芸大に入るために努力して、受験して、学費も時間もかけて、真剣にアートに向き合っています。
それでも、卒業後に“アーティストとして生きる”のは決して簡単じゃない。むしろかなり厳しい世界です。
だからこそ彼らは、誠実に考えてくれました。
「同じアーティストとして扱うべきなんじゃないか」
「作品として評価するってどういうことだろう」と。
私は、そのまっすぐな姿勢が嬉しかった反面、同時にこうも感じていました。
今回、仮囲いに作品を使っていただけるのは、“作品がすごく良いから”だけではなく、“障がいのある人が描いた作品だから”という文脈が入口になっている側面が大きい、と。

「作品だけで勝負する」世界は確かにあるけれど
ここまで書くと、「結局は、背景に関係なく作品だけで勝負するべきだ」という話になりそうですし、もちろんそれが理想だと私は思っています。
実際、奈良の「たんぽぽの家」さんや、滋賀の「やまなみ工房」さんの活動などに触れると、「これはもう、障がい者アートという括りではなく、アートとして勝負している」と素晴らしい作品に圧倒されます。
そのように、枠組みを超えて、作品そのもので評価されている人たちは確かに存在します。
ただ、同時に思うのです。
そこにたどり着ける人たちは、本当にほんのわずかだということ。
これは障がいの有無に限らず、芸術大学を出てもアートで生計を立てるのが難しい世界であることを考えれば、ある意味当然のことかもしれません。
だから私は、こう考えるようになりました。
世の中のたくさんの“表現をしている障がいのある人たち”にとって、目指す先は「作品の完成度だけで勝負する」一択じゃなくていい。
別のアートの形があっていいのではないか、と。
「障がい」という武器を使って、社会をつなぐ
「それはズルい」「本当の評価じゃない」と言われるかもしれません。
私自身も、ずっとそこに葛藤がありました。
でも、考え続けた末に、今はこう思っています。
それでもいいやん。
アートで食べていくのは、障がいの有無に関係なく難しい。
その厳しい世界で戦うなら、武器がある方がいい。
「障がい」という事実が、本人にとって“武器のひとつ”になり得るなら、堂々と使っていいと私は思います。
そして何より、私はここに大きな価値を感じています。
「障がい者アート」という文脈が入口になって人が集まる。
作品に触れて会話が生まれる。
「一緒に何かできるかも」と関係が続いていく。
そう、アートが「社会をつなぐ装置」として動き出すのです。
作品の完成度だけが価値じゃありません。
アートには、完成度で勝負する道もあれば、出会いを生み、関係を生み、社会をつないでいく道もあります。
私は「なくなるかべ」の現場で、その力を何度も目の当たりにしています。
今はまだ、“作品だけで勝負する土俵”に全員が立てているわけじゃありません。
でも今のステージでは、「障がい者アート」という武器を使って知ってもらい、人をつないでいく。
その先に、障がいがあるとかないとか関係なく、作品として評価される未来があればいい。
私は今、その途中に立って、皆さんと一緒に考え続けたいと思っています。
最後に、皆さんに質問です。
あなたが作品を見るとき、最初に見ているのは“作品”ですか、それとも“背景”ですか?





